LINEヤフー歴代社長の評価・評判・実績

名前 評判・実績・評価など

出澤剛

(いでざわ・たけし)

出澤剛

【期間】
2023年4月~

【生まれ】
1973年6月9日

※ホリエモンが去った後のライブドア社長。ネイバー傘下でLINEの成功に貢献。ヤフーとLINE合併後の経営を任される。

別の漢字:出沢剛

朝日生命からライブドアへ転職し、ネット業界に。LINE成功の立役者の一人。ヤフーとの経営統合、さらに合併を実現させた。

社長就任時の年齢

49歳

社長就任前の役職

共同CEO(代表取締役)

前任者の新ポスト

川邊社長は会長に
※ヤフーの親会社Zホールディングスとラインが2021年3月1日付で経営統合した。そのときは、ヤフー側の川邊社長がZホールディングスの社長にとどまり、出澤氏はZホールディングスの代表権は得たが、社長ではなくナンバー2だった。

出身校

早稲田大学(政治経済学部)
※1996年卒業

新卒の就職先

朝日生命保険
※「給料がそれなりに高くて、楽そうだ」という安直な気持ちで選んだという。 東京・八王子支社に配属。生保レデシー(販売外交員)の管理を担当。 就職氷河期だったため、新人が来ない状態が続いた。

オン・ザ・エッヂ入社

2001年、ライブドアの前身オン・ザ・エッヂに入社。

大波乱のビジネス人生

社外留学制度を利用して、ホリエモン(堀江貴文)率いる「オン・ザ・エッヂ」(後のライブドア)に出向する。 留学先は大企業や大学院などがあったが、「独身で体力がある」という以外に条件がなかったオン・ザ・エッヂを選んだ。

当時、朝日生命とオン・ザ・エッヂで合弁会社のネット生命保険「あさひライフネット生命」を設立した。 しかし、1年で廃業となった。

ライブドアが気に入ったため、ライブドアへの転職を希望する。 一流の若い技術者らが集まっており、魅力を感じたという。 優秀だったため、ホリエモン(堀江貴文)は歓迎した。 出向者から転職は初めてだったのではないか、という。

オン・ザ・エッヂの「モバイル事業部」の部長に就任する。 iモードなどを利用した着メロとか、占いとか、キャラクターを使った待ち受け画像などを作った。 ディズニーやテレビ東京などの携帯サイトも手掛けた。 出澤氏が部長になってから、モバイル事業の業績は絶好調になったという。

ホリエモンは、その手腕に感銘を受け、高く評価していた。20代で執行役員に。

しかし、ホリエモンが失脚。「ライブドア事件」で社内で大混乱したが、退職せずに残った。

ライブドアの社長に就任

ホリエモンの後任社長はソニー出身の平松氏が就任。いろいろ混乱が続いた。 最終的には、2007年、有能な出澤氏が社長に就任。社内は落ち着きを取り戻した。

当時ライブドアバッシングが起きていた。 出澤氏は「錬金術、虚業と大変な批判にさらされました。だけど僕たちが目指し、やってきたサービスは虚業なんかじゃない。それを証明するためにライブドアという社名で再建したかった」と後に振り返っている。

出澤氏は社長就任後、ライブドアの事業をポータルサイトとデータセンターに集約した。 一方、社員の意識改革に心を砕き、就任2年目で黒字化を果たした。

それでも、

LINEの収益化に貢献

急落したライブドア株式は投資ファンドが買い集めており、上場廃止の時点でファンド系が過半数を握った。 2010年、ライブドア株式は韓国の検索大手ネイバー日本法人「NHN Japan」に売却され、ライブドアはNHN Japanの子会社となった。

そこから「LINE(ライン)」というサービスが誕生するこことなる。

出澤氏はLINEの収益化に貢献した。LINEが登場した当時、広告事業を統括する取締役だった

出澤氏は企業向けの「公式アカウント」を考案した。 アカウントを取得すると、登録してくれたユーザーにメッセージで直接、情報を発信できる、という企業向けサービスだ。 月に数回、新商品やセールの情報を配信し来店を促す、といった使われ方が一般的だった。

テレビや新聞などマス媒体の広告効果が低下する中、メッセージが画面にポップアップで表示され、必ず目に留まる。 そんなLINEの「訴求力」は企業にとって魅力となった。

公式アカウントは2012年6月にサービス開始。各業界大手が相次いだ契約した。

2012年1月、NHN Japanと子会社ネイバージャパン、同じく子会社ライブドアの3社が経営統合。 NHN Japanの社長は引き続き森川亮氏(ソニー出身)。ライブドア社長の出澤氏は「ウェブサービス本部」の代表に。 さらに2014年、LINE(現・Aホールディングス)の代表取締役COOに就任。 2015年には森川氏の後任として、社長兼CEOへ昇格した。

LINEの決済事業に力を入れる

出澤氏はさらに、LINEにおける決済事業に力を入れた。 具体的には、2014年12月から「LINE Pay」というモバイル送金・決済サービスを開始した。

新サービスでは、LINE Pay口座にクレジットカードの登録や銀行口座などからチャージすることで、通販やLINE有料コンテンツに支払いに利用できる。

LINE Pay口座間での送金は無料で、友人同士で飲み会の清算をしたり、仕送りをしたりできる。

2016年、LINEを上場させる

2016年にLINEが上場したときの社長だった。

出身地

長野県佐久市

高校

野沢北高校(長野県立)

プライベート

ホリエモンによれば、酔っぱらうと脱ぎ癖があった。ホリエモンの家でライブドア時代に、飲み会やっていたが、突然脱ぎだして裸踊りをしていたという。

好きな本

司馬遼太郎の『国盗り物語』。中学生の時に読んで、歴史が好きになったという。


川邊健太郎

(かわべ・けんたろう)

川邊健太郎

【期間】
2018年6月~
2023年4月

【生まれ】
1974年10月19日

※ラインとの経営統合を実現させた。

別の漢字:川辺健太郎

ITベンチャー起業家を経て2000年にヤフー入社。Yahooニュースで活躍し、社長に。ラインとの経営統合を実現させた。

社長就任時の年齢

43歳

社長就任前の役職

副社長副(兼COO)

前任者の新ポスト

宮坂学社長は会長に

人事の背景

「変化の激しい業界を勝ち抜くには、新たな挑戦と経営幹部の若返りが重要」と宮坂学社長は説明した。

入社年次

2000年

出身高校

1993年3月、青山学院高等部卒業

出身大学

青山学院大学(法学部)中退
※1998年卒業

ヤフー入社の経緯

学生時代に起業

青山学院大の2年生だった1995年秋、仲間たちとともに「電脳隊」を結成した。 当時インターネットは黎明期でパソコンも普及していなかった。 ウィンドウズ95の熱狂を東京・秋葉原で目撃し、「ネットで何かやりたい」と考えた。

田中祐介氏と出会う

しかし、インターネットの知識がないため、先端を走る慶応大学の湘南藤沢キャンパス(神奈川県)を訪問。 田中祐介氏と出会う。

ラーメン店で米国の秀才と出会う

1996年6月、東京・原宿のラーメン店「九州じゃんがら」のカウンターで、数人の友人たちとラーメンを食べていた。 「ラーメンの匂いを、インターネットで配信できないか」という議論を交わしていた。 その会話を横で聞いていた米国出身の秀才ブライアン・モーザー氏(後の大学教授)が、首をつっこんできた。 モーザー氏はMIT出身で、当時は東京大学の大学院生(博士課程)。 そこから東京大学の工学部との交流ができた。

「電脳隊」設立

1996年12月、「有限会社電脳隊」を設立。 社長には、田中氏が就任した。 川邊氏は取締役。

ホームページ作成で稼ぐ

当初、電脳隊にはホームページ作成など大量の仕事が舞い込んできた。 学生集団の分際ながら、初年度(1997年9月期)の売上高は2400万円。

米シリコンバレーを回る

だが、次第に大企業も参入し始める。「このままではまずい」。 そう考え、1997年夏、仲間と共に1カ月かけて米シリコンバレーの企業を回ることにした。

米アンワイヤード・プラネットと出会う

ラーメン店で知り合ったモーザー氏が、シリコンバレーの重要人物を紹介してくれた。米アンワイヤード・プラネット(後のフォン・ドット・コム)の副社長だった。この副社長を通じて、携帯電話ビジネスの将来性を知った。 「次の潮流は携帯電話とネットの融合だ」と読み、電脳隊の経営資源を集中させることになった。

携帯電話向けのアプリ開発

米アンワイヤード・プラネットが商社系の衛星会社と組んで日本に参入。 携帯電話向けのアプリ開発を発注してくれた。

他のベンチャーと合併

川邊氏は大学卒業後の1999年9月、電脳隊の社長に就任。 1999年12月、ピー・アイ・エム設立。 2000年6月、同じくモバイル事業を手掛けるベンチャー企業「ピー・アイ・エム(PIM)」(神戸市)と合併。 川邊氏は取締役に就任。

上場ならず、ヤフージャパンに買収される

2001年中の株式公開を目指していた。 しかし、ITバブルが崩壊し、資金調達は難しくなった。 そこで、ヤフージャパンに買収された。 これにより川邊氏はヤフーの社員になった。

入社理由

自分が起業した会社がヤフーに買収された。

ヤフー入社後の略歴

ヤフー入社後、モバイル事業担当となり、携帯電話向けサービスを育てた。 「Yahooボランティア」や「Yahooみんなの政治」など社会貢献事業の基盤作りにも取り組んだ。

  • モバイル事業担当
  • ヤフー・ボランティア担当
  • ヤフー・ニュース担当
    ※2007年1月から。宮坂学氏に口説かれて、担当を引き受けた。

GYAO(ギャオ)

2009年にヤフーがUSENから買収した動画配信サイト「GYAO(ギャオ)」のトップ(社長)を務めた。 赤字事業の黒字化に手腕を発揮した。

宮坂社長誕生と同時にCOOに抜擢

実質的な初代社長だった井上雅博氏が退任し、 後任に宮坂学氏が社長に昇格した2012年4月、ナンバー2のCOOに抜擢された。 2012年2月ごろ、井上社長(当時)と筆頭株主ソフトバンクの社長でヤフー会長でもある孫正義氏に呼び出され、「体制を若返らせることになった。ついては宮坂と川邊でやってくれ」と言われたという。 COO兼副社長(メディア事業統括)に就き、宮坂氏の右腕となった。

出身地

東京・恵比寿

生誕・出生

祖父は、自動車学校やタクシー会社を創業し成功を収めた起業家。

子供時代

子どものころの夢はテレビ番組や漫画、ゲームなどコンテンツ作りだった。小学4年のときに祖父からパソコンをプレゼントされた。 「俺は自動車を普通の人が使うようになったときにうまくやった。おまえの時代は、これを普通の人が使うようになる」と言われたという。

社長時代の実績・取り組みなど

持ち株会社制へ移行

2019年10月1日、持ち株会社制へ移行。純粋持ち株会社「Zホールディングス」を設立し、その下の事業会社としてヤフーをぶら下げた。

ラインを吸収

ラインとの経営統合を実現。最終的には合併して一つの会社になった。

座右の銘、モットー

「おもろいことを、おもろい仲間と」

趣味(社長就任時)

釣り、狩猟、読書、映画鑑賞

多忙な中でも大好きな自然を満喫したいと、2012年に東京都心から千葉県館山市へ移住した。 休日や早朝などに趣味の釣りを楽しんだ。 30キロ・グラムを超えるクエが最も印象に残る釣果だという。

血液型

O型

好きな食べ物

甘酸っぱいもの

愛読書

司馬遼太郎の『空海の風景』

好きな映画

北野武監督「キッズ・リターン」


宮坂学

(みやさか・まなぶ)

宮坂学

【期間】
2012年6月~
2018年6月
※2012年4月からCEO

【生まれ】
1967年11月11日

※井上社長の下でメディア事業を牽引。後継者となった後は出遅れていたスマホ対応を加速させた

社長就任時の年齢

44歳

社長就任前の役職

執行役員
※電子商取引(ネット通販「Yahooショッピング」など)の責任者を務めていた。

人事の背景

15年以上にわたりヤフーを引っ張ってきた井上雅博社長から後継者に指名された

高校

1986年3月山口県立防府高校卒業

出身校(最終学歴)

同志社大学(経済学部)
※1991年卒業

新卒での就職先

ユー・ピー・ユー
※編集プロダクション型のPR会社。採用系のPRに特化していた。
社員募集にあたって「すべての新入社員にマッキントッシュ(マック)のパソコンを支給!」としていた。 「マックを使って雑誌をつくりたい」と思ったという。毎日新聞にも内定していたが、辞退した。

黎明期のインターネットに夢中に

入社後、普及する前のインターネットと出会う。 HTMLを独学で学び、社内で企業ホームページを制作する業務を始めた。 三洋電機や日本電産などの最初のホームページを立ち上げた。

ヤフー入社

1997年6月にヤフー入社(転職)
社員番号は53番。井上雅博氏の面接を受けて採用された。 インターネットだけに集中的に仕事をしたいというのが転職の理由だった。 当時のヤフージャパンは無名だった。人に社名を伝えても「ヤスイジャパンですか」といわれたほどだった。

略歴

ヤフー入社後

入社後、「ヤフー・ファイナンス」の終値速報を担当。

2002年、メディア事業部長

2009年、執行役員(コンシューマー事業統括本部長)

社長就任前の実績・評価・評判・口コミ

井上氏から「一番攻める側にいる人」と評された。 前向きで物怖(お)じしない性格が身上だ。 筆頭株主であるソフトバンクの孫正義社長から厳しい注文をつけられても「孫さん、それは違います」などと平然と言い返すやんちゃな姿に、グループ会社社員は「この人、やるわあ」と感心した。

仲間や部下を励ますリーダー

仲間や部下を励ますリーダーという評価を得た。 仕事のスタイルの原点は、広告制作やウェブ事業にある。 デザイナー。ライター、エンジニアらとの仕事を通じ、「チームワークは自然に生まれない」と気付いた。 自身に目立った専門性がなかったぶん、高い専門能力を持つ人をどう束ねるかに腐心した結果、チームを鼓舞するという特技を身に着けた。

タイピングが速い

頭の回転を2倍速くするのは難しいが、2倍速くキーボードを打つことは誰にでもできる」。自身も実践し、タイピングの腕は社員が舌を巻くほどである。

出身地

山口県防府市

子供時代

子どものころの夢は漁師。海が実家に近くアナゴを釣っては弁当にした。

社長時代の実績・取り組みなど

若返り人事と機構改革

就任早々、執行役員の平均年齢を約10歳若返らせるという大胆な人事を行った。ナンバー2に昇格した川邊健太郎COOと共に、機構改革を進めた。

就任するとすぐに、組織変革に乗り出した。サービスを考える人(企画部門)とサービスを作る人(開発部門)が組織的に分かれていた状態を、サービスごとのチームに再編した。

売上高やトラフィック(通信量)でサービスをランキングし、半期に1度、ランキング上位のサービスが社内の人材を優先的に登用できる機会も設けた。

さらに、前体制までは8つもあった承認機関を2つに削減。権限が現場に委譲され、現場の裁量で意思決定できる範囲が広がった。

「爆速」経営

社内に「爆速賞」を創設した。スピード開発を表彰する制度だ。スマホ対応を重視した。

スマホ対応

『スマホファースト(スマホ第一主義)』を掲げた。

モバイル技術者・村上臣氏(当時36歳)を呼び戻した。 CMO(チーフ・モバイル・オフィサー)に任命。 川邊氏と同じく青学出身で、電脳隊をともに起業した仲間だった。 電脳隊がヤフーに買収された後は、ヤフーの携帯電話向けサービスの開発をエンジニアとして次々と手がけた。 2011年4月にヤフーを去っていたが、CEOに就任したばかりの宮坂氏が直接口説いて復帰してもらったという。

2013年4月、村上氏を中心とする「アプリ開発室」を立ち上げた。

相次ぐ提携

自社が弱い分野で他社との提携を積極化させた。
・2012年8月、カカクコムと「食べログ」で業務提携に合意
・2012年10月、カカオジャパンに資本参加し、「カカオトーク」などを共同展開
・2012年11月、グリーと包括的業務提携に合意
・2012年12月、GMOコマースと「Yahoo!ショッピング」のストア数拡大を目的に提携
・2012年12月、サイバーエージェントFXの全株式取得を発表
・2012年12月、カービューの株式を取得
・2013年3月、NHNJapanと検索で提携

趣味(社長就任時)

フルマラソンや登山で鍛えた体力が攻める姿勢の原動力だ。

バックカントリースノーボード

自然の山中を滑るスノーボードの『バックカントリースノーボード』が特異。多いときで年に10回ほど楽しんでいた。富士山頂からの滑走経験もある。

血液型

A型

好きな食べ物

豆カレー

好きなスポーツ選手

アントニオ猪木


井上雅博

(いのうえ・まさひろ)

井上雅博

【期間】
1996年7月~
2018年6月

【生まれ】
1957年2月12日

【死去】
2017年4月(享年60歳)

※実質的な初代社長。日本版Yahooを独自の形で発展させ、米本社を追い抜いた。

ユーザー目線を徹底した便利なポータルサイトや各種サービス(オークション等)で、日本一を突っ走った。創業から2013年3月期まで16期連続で増収増益を達成。

社長就任時の年齢

39歳

前任者の新ポスト

孫正義社長は会長に

出身校(最終学歴)

東京理科大学(理学部数学科)
※1979年卒業
※東京理科大の数学科に進学した理由は「入試科目が数1、数2、英で、苦手の理社がなかったから」。

ソード電算機システムでアルバイト

学生時代、ソード電算機システムでアルバイトをした。勤務先は、東京・御茶ノ水のパソコン・ショールームだった。コンピュータープログラムやパソコンに熱中するようになった。

自動車部

自動車部に所属

新卒での就職先

ソード電算機システム

入社理由

バイト先のソード電算機システムの役員に「企業なら末は社長もありだ」と誘われ、就職した。当初は学校の先生になるつもりだった。

ソフト開発を担当

ソード電算機システムでは、入社後にソフト開発を担当。 次に研究開発部門に配属。 商品企画課に異動。課長代理に就任。 創業者・椎名堯慶(たかよし)社長の目にとまるようになった。

国際展開を経験

海外出張を何度も行い、世界のコンピューター業界の流れをつかんだ。椎名氏に可愛がられた。

椎名堯慶の秘書

その後、椎名社長から社長室長に指名された。

孫氏と出会う

ソード電算機の「M5」を販売する過程で、孫氏と出会った。孫氏は井上氏からパソコンに関する教えを乞うた。

東芝に買収される

1985年、ソード電算機は東芝に買収される。東芝は役員だけで30人以上いる。社長は無理だとあきらめた。それでも、将来のため大企業の空気を味わい、2年後に転職しようと決めたという。

創業者・椎名氏の退任

その後、親会社となった東芝から追い出される形で、椎名氏がソード社長を退任する。井上雅博氏は残務処理を担った。孫氏に「大企業は似合わないだろう」とヘッドハンティングされる。椎名社長が去ってから半年後に退社した。

結婚

ソフトバンクへの転職前に結婚。結婚相手はソード電算機システムの社員だった。

入社年次

1987年11月、ソフトバンクグループの「ソフトバンク総合研究所」に転職。シンクタンク会社である。当時30歳。契約社員として入った。

略歴

ソフトバンク時代

1987年11月ソフトバンク総合研究所入社

1992年6月ソフトバンクへ異動。

1994年1月、社長室の秘書室長に就任

海外買収案件に関与

孫氏の側近として以下の海外買収案件に携わった。

  • ジフ・デービス
  • コムデックス
世界中を「買収旅行」

孫氏とともに世界中を「買収旅行」した。ブレーキ役でもあった。

「インターネット準備室」を兼務

その後、新設された「インターネット準備室」を兼務し、リーダー役だった。10人程度でスタート。

米ヤフーとの交渉

森功氏の著書『ならずもの』によると、1995年11月、ソフトバンクが米ラスベガスで社内会合。ヤフー買収を目指すことを決定。1995年12月、ソフトバンクの井上雅博と影山工(たくみ)がサンノゼにジェリー・ヤンを訪れた。他の日本企業が先に交渉に来ていた。住友商事、兼松、NTTなど20社。

井上も影山も東京理科大学の数学科の出身。技術的な思考の持ち主だった。スーツを着ておらず、ジーンズ姿だった。これが相手に好印象を与えた。

  • 1996年1月に米国のYahooとの合弁でヤフー株式会社を設立。
  • 1996年1月ヤフー取締役
  • 1996年4月、ヤフージャパンのサービス開始
  • 1996年7月、社長
  • 1998年6月ソフトバンク取締役

ストックオプションで億万長者に

ヤフージャパンのストックオプションで億万長者になった。

出身地

東京都世田谷区祖師谷生
※東京都営の「祖師谷(そしがや)団地」。結婚したばかりの両親が抽選を当てた。安いアパートから引っ越してきた。

生誕・出生

父・龍太郎(2006年死去)は医療業界専門紙の記者兼編集者で、母・和子は専業主婦

2人兄弟の長男。弟は賀博(よしひろ)

子供時代

両親から特に変わった教育を受けた記憶もない。ただ一つ違ったのは「本だけは青天井で買ってもらえた」ことだ。近所の本屋でツケがきいた。『おじさん、これね』『はい分かったよ』って感じでツケで買っていたという。

中学校時代からはSFにはまった。アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラーク、星新一など。ハヤカワ文庫のSFはほとんど持っていたという。

小学校

1963年4月、世田谷区立祖師谷小学校

中学校

1969年4月、区立船橋中学校

高校

1972年4月、東京都立松原高等学校

社長時代の実績・取り組みなど

「ユーザー志向」

別格のIT企業経営者だった。その理由は、「技術優先」でなく「ユーザー優先」だったからだ。技術オタクの論理を徹底的に排除し、無駄な機能を追求しなかった。まあくまで「使い手の利便性」を追求した。その点は、米ヤフーの創業者ジェリー・ヤン氏とも思想が一致していた。

集客を重視

日本法人設立前、ヤン氏との議論の結果、インターネットで最も難しいのは「人を集めることだ」という結論に達した。誰でもホームページを作れって情報発信できる。だから無数のサイトが生まれる。一つ一つのサイトは人を集めるのに苦労する。だから、人が集まるサイトをつくれれば、どんなビジネスでも展開できると考えた。

目先の利益よりもリピーター獲得

利用者が飽きずに、繰り返し訪れるサイトをつくることを至上命題とした。た、短期的な利益を出そうとする試みも排除した。ユーザーにとっての利便性を優先させた。それが具現化したのが「ヤフージャパン」だった。

安定性

障害が起きない安定したシステムも徹底的に追求した。ストレスなく楽しんでもらうためのサイトやサーバーの運用技術だ。

細かい要望を言い続けた

自らを「最強のヤフー・ユーザーでクレーマー」と名付けた。「表示が遅い」「他社でできて、なぜうちはダメなの」などと、ひたすら社員に細かい文句を言い続けた。

多角化で成功

ITバブルがはじける半年前、2000年秋のこと。世の中は、インターネット関連のビジネスは右肩上がりを続けると信じてやまなかった。しかし、井上氏は「2000年の春ぐらいから米国で様子がおかしい」という予兆を感じ、100%広告収入に依存しているビジネスモデルを改め、多角化路線による収益基盤の確立を急いだ。

ITバブルを生き延びる

具体的には、オークション、インターネット通販、ブロードバンド接続のヤフーBBだった。この路線が成功し、ITバブル崩壊後の2003年度も、売上高590億円、経常利益235億円という絶好調の業績をたたき出した。

ヤフオク有料化

ITバブル崩壊で、日本や米国では多数の企業が倒産、買収された。一方、ヤフーは他のサイトをはるかに引き離す利用者を獲得。その圧倒的な知名度と集客力を武器に、オークションの有料化にも成功。収益の柱にした。

ポータルサイトの王座に

「新聞にあってネットにないものを」そろえるという戦略をとった。例えばヤフーファイナンス。東証のリアルタイム株価を開放させつつ、それをサイト上に表示させるシステムを構築した。ソフトできないもことは手作業でやる方針で、とにかく実現した。

ニュースの提供を受ける

ニュースサイトで共同通信と交渉が決裂すると、すかさずブロック紙と交渉に入った。ブロック紙とは、北海道新聞、河北新報、中日新聞、西日本新聞、中国新聞などだ。担当者を回らせ、果敢に攻め込んだ。

ヤフトピ

1998年1月から、ヤフー・ニュース・トピック(ヤフトピ)の原型となる「フルカバレッジ」をスタート。読売新聞出身の奥山倫弘氏(みちひろ/後の「THE PAGE」編集長)を担当者に起用した。

読売と提携

2001年8月21日、読売新聞からのニュース配信を受けることに成功。情報提供料は月額530万円だったという。

新聞社のポータルに勝利

共同通信の「47NEWS」、朝日、日経、読売「あらたにす」に大勝利を収めた。

退任後

2012年6月退任。会長や相談役にはならず。会社から完全に去った。

ハワイに転居

趣味に没頭した。

趣味(社長就任時)

ガンダムの「ザク」を愛した

東京・六本木ヒルズ27階のヤフー社長室には、「ザク」のプラモデルが飾られていた。「ザク」は、1980年代に大ヒットしたテレビアニメ「機動戦士ガンダム」に登場する敵役のロボット。戦闘機のように人が乗り込んで宇宙を飛び、格闘技のように敵と戦う。「ガンダムの物語よりザクのデザインとか色合いとかが好きなんです。でもシャア(敵の少尉)が乗るとかなり強い。そこがいい」と語っていた。

逝去・葬儀

現地時間:2017年4月25日午後2時30分(日本時間4月26日午前6時30分)。自動車事故で死亡。(享年60歳)


孫正義

(そん・まさよし)

【期間】
1996年1月~
2018年6月

【生まれ】
1957年8月11日

初代社長に就任したが、経営は最初から井上雅博氏に任せており、半年でバトンタッチした。